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大敗した明智光秀軍は

大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城した。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え同年2月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国したが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまった。

一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていく。
再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れる。

この間明智光秀は畿内を転戦する。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われる。

赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていた。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。
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特に石山本願寺からは、織田信長の動向、その対抗策、返信の要請など緊密に連絡が行き来されていたと思われている。また、赤井直正、赤井幸家兄弟は、吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。

この朱印状は4月13日、織田信長から矢野弥三郎に宛てた朱印状で、内容は「赤井忠家、赤井直正の罪を「赦免」(ゆるし)し、去年以来より織田方に「一味」した者の身上は異論なく扱い、「当知行」も安堵してするので、明智光秀と相談して益々忠節を尽くすよう」とある。

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2009年11月13日 14:04に投稿されたエントリーのページです。

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